明治の女学生 自転車通学奮闘記
自転車文化センター学芸員 谷田貝 一男
明治36年2月から9月まで読売新聞に小説「魔風恋風」が連載されました。ヒロイン萩野初野が颯爽と自転車で現れるところから話は始まります。「鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風になびいて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」(写真1)
この可憐な乙女が自転車に乗る姿が流行となり、その姿が当時の様々な広告に使われました。(写真2・3)
ところが明治38年当時の女性の利用者数を見てみると表1の通りで、これが全てではないにしても同じ明治38年の東京府下の自転車台数7587台と比較しても女性の自転車利用は一向に進んでいないことがわかります。女性の自転車利用の低さには2つの理由がありました。1つは良妻賢母、女性は家を守るべきもので外に出て活動するものではないという従来の女性に対する男性からの既成概念で、自転車に乗る女性は生意気であるといわれ冷笑されるほど女性の地位の低さによるものでした。もう1つは自転車の価格が高く、所有できるのはごく一部の人たちだけでしたから、庶民は羨ましさと妬みが混在した気持ちを抱いていたことによるものでした。そんな状況が明治41年のある一人の勝気な女学生の自転車通学奮闘記から読み取れます。
私は現在の足立区中央本町にある足立区役所付近に住み、御茶ノ水駅北側にある東京医科歯科大学にかつてあった東京女子高等師範学校へ通っている女子学生です。通学路は日光街道を南に下り荒川を渡り、千住、入谷を通って上野駅前へ出ます。そこから不忍池畔方面に曲がり中央通りに出て末広町を通って万世橋手前を西に曲がると学校に着きます。片道約12㎞で最初の2年間は歩いて通いました。(図1)
学校の始業は年間を通じて午前7時のため、自宅を出るのは4時でした。さすがに往復6時間の徒歩は辛く、父に自転車を買ってもらって通学するようになるとわずか約40分から1時間ほどで通うことができました。しかし自転車に乗るときの姿は男女の区別がつかないように冬は父の二重回しと呼ばれている男性用コート(写真4)を頭から被り、夏は黒っぽい筒袖(写真5)を着ました。ところが如何せん自転車が女性用(写真6・写真7)であったため、女が自転車に乗って毎日通るというので、12㎞の沿道ではその町々特有の冷評を浴びせ続けられたのです。
朝は6時前に自宅を出ます。しばらく走ると隅田川に架かる千住大橋の北側にある千住の青物市場を通ります。ここは幕府の御用市場として神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つに数えられ、現在も東京都内唯一の水産物専門の市場として残っています。そんな青物市場は日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ねたもので「やっちゃ場」とも呼ばれ、活気あふれる問屋街です。午前3時に市が開きますので、6時頃は活気のある時間でもあります。このため、ここを通るときは毎日市場の人たちから次々に頭を叩かれました。さすがにこれには耐え切れず、自転車から降りて警察官に保護してもらいながら通るようにしました。本当にこの時は苦しい毎日でした。ここを通れば学校まではどこも通行人が少ないので比較的楽でした。
でもこんなことも時々ありました。上野駅前から末広町を通る中央通りには東京電車鉄道の路面電車(写真8・写真9)が走っていました。この路面電車の運転手が「速力の競走をしましょう」と声を掛けてくるのです。からかわれているとわかっていますので、つい競走などしないと思ってはいても電車の後に残されるのも残念で悔しいので、上野駅前の車坂から末広町まで一生懸命走ってしまいます。でもやはり電車にはかないません。電車の後尾に付いていくのも私は勝気で負けるのも悔しいので負けそうになると卑怯ですが、横町へ曲がってしまいます。
帰りは学校を6時に出ますので家に付くのは7時頃です。この時間帯はどこも人通りが多く朝よりも大変なことが続きます。ある日のこと、上野広小路を通ると前方で子どもたちが相撲を取っていました。ベルを鳴らすと子どもたちは左へ避けたのですが、その瞬間勝負がついて負けた子どもがよろけながら私の自転車にぶつかってきたのです。私は人通りの多い道路の真ん中にあられもない姿で投げ出されてしまったので、思わず「畜生」という荒々しい言葉が涙と共に出てしまったのです。子どもたちは悪いことをしたと思ったのかあっという間に逃げてしまいました。
また私は犬が苦手で「ワンワン」と吠えられると怖くなってなかなか前に進むことが出来ません。毎日通る道ですからどこの家に犬がいるかということがわかっていますので、その家の前に来ると胸がドキドキして無事に通れますようにと念じながら通っています。ところがちょうどそのときにその家の子どもが出てくると私に意地悪をしようとして犬をけしかけて吠えさせたり、ときには犬を道路まで連れ出して私の進路をふさいだりすることもありますので大変困ってしまいます。犬のことではこんなこともありました。ちょうど下り坂に来たとき、前に犬がいるではないですか。坂の下には溝があるため、いつもは注意を払いながら下っているのですが、この日ばかりは「犬が、犬がいる」と思って焦ったため、見事自転車共々溝にドボンと浸かってしまいました。幸い通行人はいなかったのですが、ご近所の人が何事かと何人か出てきました。その人たちに濡れた姿を見られるのも恥ずかしいことなので濡れ姿のままで帰りました。
家の近くでは若い男の人が道路に立ちはだかってじっと自転車に乗る私を見つめていることもあります。そんなときに転んだりするのは外聞も悪いので慎重に運転します。でも他の所で転倒したこともあります。私の前をおばあさんが歩いているのでベルをならしましたが、聞こえないようで避けようとはしません。そのとき正面から馬車が勢いよく走ってきました。あぶないと思って避けたとき、運悪くおばあさんも同じ方向に避けたため、おばあさんを突き飛ばして私も転倒してしまいました。起き上がったときはおばあさんの姿がなく、1時間ほど探したのですが行方は分からず、私も怪我がなかったのがせめての幸いと思って暗闇の中を帰りました。
しかし、毎日最も辛いことは沿道の男の人からの嫌がらせをされることです。特に上野駅から少し北に行った坂本から入谷あたりが最も激しく責められます。「何だい、この高襟は。」「生意気な奴、どやしつけてやれ。」「面は覚えているから次は覚悟しておけ」など汚い言葉を浴びせられます。また卑猥な言葉を言ってはみんなで笑うのです。さらに休みの日に学校の図書館に行くときは何も持たずに自転車に乗りますので、「芸者が自転車に乗って行くぜ、当世だなあ。今日はどこで何があるのだ」と若い人から声を掛けられたときなどは悔しくて腹が立ち、言い返そうとも思いましたが、大人げないと思い、黙って唇をかみしめて通り過ぎたこともありました。
嫌がらせは言葉だけではありません。ときには家の中から石を投げられたり、水を掛けられたりしたこともありました。そのたびに自転車から降りて一人一人殴ってやりたいほど胸は煮え返っていますが、我慢して風のように通り過ぎています。
でもこの付近を通るときはいつも嫌なことばかりが起こるのではありません。毎日通るので私を電話局の交換手と思ったらしく、「どこの交換局へ通っているのかな?なかなか感心な女だな。」 という声を耳にしたことがあり、思わず笑ってしまいました。
また学校近くの昌平橋近くを歩いていたら、「お姉さん、自転車はどうしたの。もう乗らないのかい。」といわれました。やはり女が自転車に乗ることはよほど目につくものだと妙なところで感心しましたが、注意さえすれば決して他人にケガをさせず、自分もケガをせず大変便利でよいものだと私は思っています。
(参考文献)
「輪界」輪界雑誌社 明治42年8月 第12号