明治~昭和初期の錦絵に見る自転車のある東京の町並み
江戸時代も半ばすぎた1765年(明和2年)、鈴木春信らによって創始された華麗な多色刷版画が錦絵と呼ばれています。以後、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重ら優れた作者が彫師・摺師との協力のもとで、役者や力士、美女などの似顔絵を中心として歴史画や風景、花鳥などすぐれた作品を数多く描き、江戸時代後半の日本文化の一端を担っていました。
その後、明治維新によって急速に西欧文明をとりいれて変貌していく社会の様相をすばやく絵画化して版行したのが、開化錦絵とも呼ばれた明治絵でした。特に江戸から東京へとその名を変え、西洋風建築や橋梁、銀座煉瓦街などの建造物、鉄道や電信の開通、殖産興業政策による博覧会の開催、洋装の風俗など、次から次へと登場する文明開化の足跡を描いていきました。
化学染料を多く使用したため、赤、青、緑など原色の強いものになり、それが明るく華やかに世界に彩られたものとなり、絵師たちが意識的に演出していったのではないかとさえ思えるほどです。それが地方から来た人たちに文化と社会の発展として映り、東京見物のお土産としても重宝されました。これらの作品は明治以降の文化を知るうえで貴重な史料として評価を受けています。(谷田貝一男)
1. 東京名勝 新吉原夜ざくら 明治39年~45年
吉原は当初、現在の東京都中央区掘留二丁目(地下鉄小伝馬町駅と人形町駅の間)界隈にあったが明暦の大火(1657年)で浅草日本堤(浅草寺の北側)に移転した。このため、移転前の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と言って区別します。 江戸幕府のときから吉原の中心を真っ直ぐ貫く仲之町通りの夜桜は有名で、吉原は特別な場所だったが、桜の時期だけは誰でも簡単に出入りすることができたので花見だけを目的に吉原を訪れる人も多く、花見客のために往来の規制が緩和された時代もあった。 この仲之町通りの桜、もともと並木としてそこに植わっているものではなかった。毎年3月1日に開花するよう、2月下旬頃に桜の木を根元から移植し、花の時期が終わったら撤収していた。
2. 東京名所之内 吾妻橋風景 国利画 明治22年
創架は安永3年(1774年)10月17日のことで、江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋であり、その後何回か架け替えが行われた。明治9年(1876年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。この最後の木橋は、明治18年(1885年)7月の大洪水で上流にあった千住大橋の橋桁が流されて吾妻橋脚と衝突し、一緒に流失してしまった。このために明治20年(1887年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。この絵の吾妻橋は昭和6年(1931年)に現在の橋に架け替えられるまで使われた。
歌川国利(1847~1899)は三代豊国の門人で、師の死後は二代国貞の門に入る。慶応年間から明治30年頃にかけて活躍し、銀座の風景や鉄道馬車などの開化絵や名所絵、銅版地図などを残している。
3. 東京名所 吾妻橋 明治28年
正面から描いているため、歌川国利が描いた斜め横からの吾妻橋と併せて見ると、橋の全貌が分かる。原口要, 原龍太, 倉田吉嗣の設計によるもので、橋長150m近いこの橋は当時としては大阪淀川橋梁の天神・天満橋に次ぐ長大橋であった。図の中にも橋の入り口右側に完成した年月が、左側に設計者3名のうちの2名の名が書かれている。
4. 東京名所之内 新両国橋川開花火之景 明治39年
両国の花火大会は、享保18年 (1733年)、8代将軍吉宗が疫病死者の慰霊と悪霊退散を祈って始められた両国川開きに起源をもつ伝統な花火大会である。文化7年(1810年)には、「鍵屋」から「玉屋」が分家し、江戸の花火大会の興隆を支えた。
明治39年(1906年)の頃の路面電車は緑色をしており、街鉄と呼ばれ、橋の上では単線のため、橋の中央を走っていた。
5. 東京名所 両国橋之景況 大正7年
武蔵国と下総国をつないだので両国橋という。この絵が印刷された5年後に大震災にあった。場所柄、お相撲さんや、柳橋芸妓の姿が見られる。橋の右奥が本所の旧国技館である。国技館の設計は赤煉瓦の東京駅と同じ辰野金吾、葛西万司で、明治42年に完成した。
6. 東京高輪風涼図 国周画 明治4~5年頃
高輪は南北に長い丘陵地で、江戸時代に諸藩の下屋敷が多く置かれたことから、明治時代以降も邸宅の立ち並ぶ地となった。この丘陵地の東側は海に面した斜面で、その下を海沿いに東海道が通っていた。
国周(1835~1900)は押絵師の長谷川派豊原周信に学んだ後、三代豊国に入門。役者絵師といわれるほど役者絵が多く、明治期の芝居絵、役者絵の中心的存在で、その特徴はこの「東京高輪風涼図」にも表れている。
7. 東京高輪往来車盡行合之図 一曜齋國輝画 明治4年~5年頃
高輪を舞台に当時の乗り物を描いている。新橋横浜間に鉄道開通したのは明治5年10月である。三輪車に「自轉車」という説明が付いているが、自転車という言葉は明治3年4月、竹内寅次郎が東京府に提出した自転車の製造・販売の許可願書にはじめて使われている。
一曜齋國輝(1830(天保元)年~1874(明治7)年)は三代豊国の門下で、はじめ二代国綱と称し、のち二代歌川国輝となるが、号は一雄斎・一曜斎等も使った。
8. 東京名所 芝公園増上寺山門前之景 大正元年
芝増上寺の山門を品川側から見た絵である。芝公園は明治6年(1873年)、上野、浅草と共に公園地に指定された。面積は上野公園に次ぐものであるが増上寺境内と徳川家霊廟がその大部分を占めている。この当時、東京見物のおみやげの額絵や絵葉書には芝公園増上寺の景は必ず取り入れられていた。
9. 東京名所 上野公園内国勧業博覧会 楊斎延一画 明治23年
内国勧業博覧会は上野公園で3回開催されており、第2回は明治14年3月から4ヶ月間、第3回は明治23年4月から4ヶ月間であった。錦絵の出版印が「明治22年」となっているが、会場建物や会場の構図などが、第3回に類似しているので、これは出版印の誤りであろう。
前輪が大きく後輪が小さいオーディナリーと呼ばれる現代の自転車が誕生する前の自転車が描かれているが、明治23年4月に発行された「東京名所 上野公園第三内国博覧会場略図」にも同じ自転車が描かれている。自転車を出展した山崎治兵衛(東京・京橋)か向山嘉代三(東京・浅草)のいずれかが会場前でデモンストレーションしたのだろう。
楊斎延一(明治5年~昭和19年)は姓が渡辺、のち島田となり名は次郎。周延の門人で、明治20~30年代に美人画、風俗画を多く描いたが、その後は肉筆画を専らとして、えんいちと呼んだ。
10. 東京名所 上野公園第三内国博覧会場略図 明治23年
明治政府は「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもとに積極的な近代化政策をすすめたが、その勧業政策の一環として内国勧業博覧会を開催した。明治10年(1877年)の第1回から明治36年の第5回まで行われた。
第3回(明治23年)は上野公園が会場で、会場内を電車が走った。パリ万博の翌年ということもあり海外の出品物も同時に展示され、華やかで内容の深い博覧会となり、天皇は何回も訪れた。
当時、自転車の輸入が始まって間もない頃であったが、山崎治兵衛(東京・京橋)と向山嘉代三(東京・浅草)の2人が自転車を出展している。
11. 東京名所 上野公園清水堂下之景 大正6年
徳川家康から江戸城の東北に当たる上野忍が岡の地を拝領した天海僧正が、比叡山延暦寺になぞらえて、寛永2年(1625年)、関東の天台宗本山として寛永寺を建立した。その天海が寛永8年京都清水寺に似せて、観音堂を創建した。それが清水堂で、元禄11年(1698年)現在地に移され、四方の眺望の良い名所として評判となった。現在の建物は元禄期のものである。桜の咲き誇る清水堂下の、絵には描かれていないが左に不忍池がある。
12. 東京名所 上野公園観桜之光景 大正7年
上野広小路側から見た絵である。右が清水堂、左が不忍池の弁才天の社で、中央奥の建物が精養軒である。弁財天社は、清水堂を創建した天海僧正と常陸下館水谷伊勢守勝隆とが、琵琶湖の竹生島に模して中島を築き、本尊弁才天及び脇士多聞天・大黒天の2天を祀ったものである。観桜の賑わいはいつの時代も変わらない。
13. 激震と猛火に襲われし上野広小路松坂屋付近之景 大正12年
大正12年(1923年)9月1日に発生した大震災は、その日のうちに下町の大部分を焼き尽くしたが、上野広小路にあった、大正6年(1917年)竣工のルネッサンス式煉瓦造りの松坂屋だけは難を免れたといわれた。しかし、2日夜半から3日の朝にかけて、飛火が原因で焼け落ちてしまった。
14. 東京名所 上野公園桜雲台西郷銅像付近之賑ひ 昭和4年
上野公園のこの風景は半世紀を過ぎた現在でもほとんど変わっていない。山下の交番、不忍池、広い石段、山上の西郷翁の銅像、千手観音世音清水堂は今も残っている。
この頃の「大東京案内」によると、我が大東京市は現在大小百四個所、面積八十二万八千坪の公園を有し、・・・」とあるが、上野公園は十八万五千坪を有する東京市内最大の公園であった。
15. 東京名勝 新橋銀座通り博品館之図 大正7年
新橋から銀座方向を見た絵である。明治5年(1872年)に汐留の新橋ステーションができて以来、新橋から銀座通りにかけては、東京の表玄関になった。街路には柳が風になびき、いかにも銀座の風情をかもし出している。左角の三層楼は明治31年(1898年)、伊藤為吉が設計竣工した、帝国博品館という勧工場で、百貨店のはしりともいうものであった。勧工場は階段ではなく、板を敷きつめた傾斜路を上がって、ぐるぐる全階をまわらないと出口にでられない仕組みになっていた。遠方に見える塔が服部時計店、右端の建物が恵比寿ビヤホールである。
16. 東京浅草金龍山並ニ鉄道馬車繁栄之図 明治15年
浅草寺の山号が金龍山で、雷門や仁王門は942年に安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがあり、この頃に寺観が整ったものと思われ、東京都内最古の寺院である。
江戸時代後半に仲見世の前身である商店や芝居小屋が境内に設けられて以降、浅草は庶民の盛り場、娯楽場として発達し、浅草寺と絵の中央上部に描かれている隅田川とともに、浅草という一帯が東京の娯楽の中心となった。
この絵が描かれた明治15年に東京馬車鉄道として日本で最初に馬が線路の上を走る車両を引く馬車鉄道が運行を開始した。また、木造の建物が大半の中に、山門の入り口脇にある青い屋根のレンガ造りらしい建物(絵の中央左端)があるが、明治18年には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。
17. 築地ホテル館 芳虎画 明治2~4年
慶応4年に築地居留地の建設に当たり、外国人のためのホテル「築地ホテル館」が完成した。アメリカ人のブリジェンスが設計した和洋折衷様式で、搭屋付きの3階建(一部4階)の本館と平屋からなる日本で最初のホテルとして東京随一の名所となった。4年後には火事で焼失してしまったが、当時の絵師が競って描き、その種類は100を超えている。現在の築地卸売市場の立体駐車場あたりにあった。
18. 東京停車場之前景 大正8年
東京駅を中央停車場とする計画は明治中期から練られていたが、相次ぐ戦争や物価騰貴で計画が延び、開業したのは大正3年(1914年)12月20日であった。この日から、今まで長距 離を走る列車の始発駅であった新橋駅は汐留貨物駅となり、烏森駅を新橋駅と改称し、東京駅が東京の玄関口となった。左遠方に見える汽車は大正8年(1919年)3月1日に開通した中央線の高架鉄道である。
19. 帝都丸之内東京駅の偉観 昭和2年
大正3年(1914年)竣工した煉瓦作りの東京駅は、辰野金吾と葛西万司の設計によるもので、明治41年(1908年)着工の外容共々完全な明治建築である。向かって右側が乗車口、左側が降車口と決まっていた。昭和20年(1945年)4月の空襲で焼け落ち、昭和22年に元に復したが、屋根の形は変わり、内部の豪華さは消えた。戦前の東京の空には、この絵のような飛行船がよく飛んできた。
20. 東京日本橋繁栄之図 芳虎画 明治3年
日本橋の南詰に設置されていた高札場とその周辺の状況を描いている。高札場とは府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代6万を越える全国の村々にあまねく存在していた。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されていた。
左の石垣が築かれている所が高札場で、その右隣に目安箱がある。目安箱の前に飛脚箱を担いだ町飛脚の姿も描かれている。外国人らしき男が三輪車に乗っているようすが描かれているが、二輪車・三輪車の登場する錦絵として最初のものといわれている。この絵が描かれた明治3年に竹内虎次郎が東京府に製造販売の許可申請を出したが、この文書の中に初めて「自転車」という言葉が使われている。
歌川芳虎(生没年不詳)は国芳の門人で、天保から明治20年頃(1887年)にかけて武者絵、役者大首絵の他、開化絵なども多く画いた。明治元年(1868年)の錦絵師番付では2位であった。
21. 日本橋之真景 明治45年頃
日本橋の東北隅から西南への眺めである。橋の左手前に慶長以来の魚河岸があり、関東大震災後に築地に移るまで、市民の台所を一手に引き受けていた。その魚河岸の帰りだろう姿が見られる。
向こう側の白いビルは英和辞典などの発行を行っていた大倉書店である。
22. 東都新築日本橋之図 明治44年
中央下、左下、左中に3台、違うタイプのセーフティ型自転車が並んでいる。橋として13代目にあたる石橋が誕生したのが、明治44年4月3日であった。川には船が行き、まだ物資の輸送に活躍していた一方で、橋の上では、ボギー車とよばれた路面電車が次から次へと続いて来て、待たず乗れた。しかも飛び乗り飛び降りを平気でやっていたという。
23. 日本橋之真景 大正7年
明治45年(1912年)頃発行の「日本橋之真景」を模写したものである。人物の一部が変わっている以外、全体の構図等は同じである。明治から大正、昭和にかけて東京見物のおみやげとしてこのような額絵とよばれるものが良く売れた。絵の出来も原画と比べてうまいとは言い難く、廉価版であっただろう。
24. 東京名所 日本橋繁華之光景 昭和7年
日本橋を描いた錦絵は多いが、南から北方向を描いたのは珍しい。正面左の煉瓦造りで屋上に日の丸の立っている緑青のドームを頂いたビルが、旧帝国製麻本社ビル、その背後の高塔に旗のひるがえっているのが三越本店である。
25. 東京名勝 九段坂上靖国神社 明治39年
九段坂は、江戸のはじめにできた坂である。宝永の頃この坂に沿って九段になった長屋を作り、江戸城のお花畑の役人を置いたのが九段坂の名の起こりである。明治中頃、車の通行ができるようになった。この坂の上に靖国神社がある。明治2年(1869年)東京招魂社として建立、明治12年靖国神社と改称された。この絵が描かれたときはまだ第一鳥居はなく、描かれているのは現在の第二鳥居である。
26. 九段坂上靖国神社 大正2年
明治20年に建てられた現在の第二鳥居(大鳥居)から拝殿を見た図である。大村益次郎銅像はこの図の手前にあるため別枠で描いた。現在はこの鳥居と拝殿の間に檜造りの神門があるため、この図と異なる景観になっている。桜が植えられたのは明治30年過ぎである。
鳥居手前右の石灯篭脇にある樹の位置が明治39年の絵と逆の位置になっているが、この絵の位置が間違っている。